音戸大橋(おんどおおはし)
諸元
路線 | 一般国道487号 |
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所在地 | 呉市警固屋~呉市音戸町(音戸ノ瀬戸) |
完成 | 昭和36年12月3日(供用開始) |
延長 |
[主橋梁]172.0m
(呉側桁橋20.0m+アーチ橋116.0m+音戸側桁橋36.0m)
[音戸側取付道路]432.0m(うち高架橋301.6m)
[呉側取付道路]580.0m(うち跨道橋20.0m)
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最大支間長 | 114.88m |
設計荷重 | 1等橋 TL-20 |
上部工形式 | ランガー橋 |
アーチライズ | 17.0m |
有効幅員 |
[主橋梁]6.0m
[音戸側取付高架橋]9.5m
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車道幅員 | 5.5m |
桁下高さ(航路) | 23.5m |
塗装色 | 朱赤 |
管理者 | 広島県 |
難題克服の奇策!我が国初の2層半螺旋型高架橋
音戸ノ瀬戸は,その昔,かの平清盛公が厳島神社へ参詣するため,沈む夕日を金の扇で招き返し,一日で切り開いたとされる「日招き伝説」の残る地である。
幅およそ200mの狭い海峡を航行する船舶は,架橋当時1日約700隻を数え,その間を縫うように渡船が1日250往復し,6000人と自転車以上の車両2000台を運んだとされ,その様は「瀬戸内銀座」とも例えられるほど混雑していた。
こうした状況から昭和31年に「架橋促進期成同盟」が結成され,昭和35年より当時の日本道路公団の有料道路として,瀬戸内海では初めてとなる本土と離島間の架橋事業が始まった。
音戸大橋の建設にあたっては,狭小な音戸側用地の制約と1000t級の大型船舶が航行できる桁下高さの確保が課題であった。
このため音戸側は,世界でも珍しく我が国では初めてとなる「2層半螺旋型高架橋」(フィギュアスケートで例えれば「ダブルアクセル」)を,また,警固屋側も地形を上手く利用したループ式道路を採用することで,狭小な用地内で桁下高さ23.5mを稼ぐという,一石二鳥の画期的な方法で課題の解決を図ることとなった。
この前例のない高架橋の設計にあたっては,通常の比較検討に加え,円形と長円形の実物大の平面走路を作製し,運転のし易さなどを検証した結果,円形高架橋を採用した。
渡海部は航路を橋脚で狭めることがないよう,音戸ノ瀬戸の最狭部をひと跨ぎする箇所とし,主径間を116mとした上で,架設可能な工法を,鋼橋のランガー形式とPC橋の片持ち式架設工法の2案に絞ったがいずれにも決め難く,設計付き入札を実施し,工事費のみならず維持費を含めた検討を行なった結果,ランガー形式に決定した。なお,ランガー形式の道路橋としては当時我が国最長となるものであった。
現在の技術であれば,起重機船により海上から一括架設する方法が考えられるが,当時はまだそのような船や技術もない時代であったため,長期間にわたる架設により航路に影響を及ぼさないように,ケーブルエレクションによる施工であった。
塗装色は,清盛公が音戸ノ瀬戸を通って厳島神社に参詣したとの伝説より,大鳥居の色に合わせて「朱赤」にしたとも言われており,建設後半世紀以上を経た現在も,県内屈指の観光地「音戸の瀬戸」の象徴的な光景として親しまれている。
昭和36年12月3日の開通式では5万人が「夢の架け橋」の完成に熱狂し,以後島民の生活スタイルは大きく変化していくこととなる。
昭和49年7月に未償還分の金額を広島県が補填し,8月1日より無料化されて以降は広島県が管理している。
本州と呉市周辺の島々を結ぶ出発点として,この地域の発展を支えてきた音戸大橋。取付道路を含めた総延長は1,184m,まさに「いいはし」なのです。
受賞履歴
- 昭和36年度全建賞(道路部門)
パンフレット
位置図
アクセス情報
バス
- JR呉駅より広電バスにて,昭和町経由・音戸の瀬戸方面行き,「音戸渡船口」バス停下車,徒歩約500m
- JR呉駅より広電バスにて,昭和町経由・見晴町行き,「音戸大橋上」バス停下車,徒歩約700m
お車
- 広島呉道路(クレアライン)呉ICより,約8km,約20分
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