古墳時代の生活、風土記の丘地形模型、風土記の丘の古墳のかたち、古墳の埋葬施設、古墳の出土遺物、三次盆地の主な古墳、発掘調査された古墳
浄楽寺第12号古墳出土の鉄器・埴輪・勾玉、四拾貫小原第1号古墳出土の鉄器・玉類・珠文鏡、久々原第6号古墳出土の埴輪
三次盆地に数多くの古墳を造った人々は氾濫(はんらん)の多い大河川の近くを避け、流域のなだらかな丘の斜面を階段状に造成して竪穴住居や高床倉庫などを造り、ムラ(集落)を作りました。そして、集落の前面の細長い谷で稲作を、日当たりのよい丘の上では畑作を行ないました。
(この模型は松ヶ迫遺跡群〔三次工業団地内〕を参考に製作しました。)
三次盆地とその周辺には約4,000基余りの古墳があり、県内最大の古墳密集地として知られています。
なかでも、みよし風土記の丘にある「史跡浄楽寺・七ツ塚古墳群」には総数176基の古墳があり、三次盆地最大規模の古墳群です。
この古墳群は三次市高杉町と小田幸町にまたがり、美波羅川西側の南北に細ながくのびるなだらかな丘の上に立地しています。
丘の中ほどでくびれ、北側が浄楽寺古墳群、南側が七ツ塚古墳群となっています。
このうち、浄楽寺第1・12・37・61・63号古墳の5基を昭和29年(1954)に広島県教育委員会と広島大学とが発掘調査を行いました。
1.古墳のかたち | 浄楽寺古墳群 | 七ツ塚古墳群 |
(116基) | (60基) | |
円墳 | 98基(84%) | 55基(92%) |
方墳 | 17基(15%) | 2基( 3%) |
前方後円墳 | 0基 | 1基( 2%) |
帆立貝形古墳 | 1基( 1%) | 2基( 3%) |
2.古墳の大きさ | 浄楽寺古墳群 | 七ツ塚古墳群 |
30m以上 | 1基( 1%) | 0基 |
30~25m | 3基( 3%) | 6基(11%) |
25~20m | 4基( 4%) | 2基( 4%) |
20~15m | 13基(11%) | 8基(11%) |
15~10m | 47基(40%) | 27基(46%) |
10m以下 | 48基(41%) | 17基(28%) |
浄楽寺・七ツ塚古墳群の古墳のかたちには円墳・方墳・前方後円墳・帆立貝形古墳があります。両古墳群ともほとんどが円墳です。なかでも最大の古墳は円墳の浄楽寺第12号古墳で、直径45m、高さ6mです。他の大多数は15m以下の小型のもので、浄楽寺古墳群では特に10m以下のものが多くなっています。こうした古墳の大きさは全国の大型古墳に比べると非常に小さなものです。
浄楽寺・七ツ塚古墳群の埋葬施設は発掘調査で、浄楽寺第1・37・61・63号古墳が箱形石棺、浄楽寺第12号古墳が2基の粘土槨であることが明らかになっています。また、七ツ塚第42・48・49・58・60号古墳には横穴式石室が一部露出しています。
昭和29年(1954)の発掘調査で、浄楽寺第12号古墳から各種の埴輪が、また、各古墳の埋葬施設から様々な副葬品や人骨などが出土しました。
浄楽寺・七ツ塚古墳群は古墳時代中期~後期(今から1,600~1,400年前)にかけて造られたものと思われます。
浄楽寺・七ツ塚古墳群をはじめとする三次盆地の古墳群の特徴としては、他の地域では後期になって横穴石室を埋葬施設とする古墳がたくさん造られて群集墳となるのに対し、ここでは中期(今から1,600~1,500年前)頃から古墳が盛んに造られ、後期(今から1,500~1,400年前)になっても横穴石室があまり多くないことがあげられます。
また、墳丘はあまり大きくなく、円墳が非常に多い一方、特に、旧三谷郡(馬洗川流域)では帆立貝形古墳の割合が多いことも指摘できます。しかも4,000基の古墳がこのような小さな盆地に密集して造られていることは全国的にも例がありません。
以上のような三次盆地における古墳文化の特質は中国山地で砂鉄製鉄が盛んであったことやそれに伴って畿内政権や吉備との関係が関わっていたと思われます。
三次盆地を中心とする県北地域では、古墳時代以外でも弥生時代には四隅突出型墳丘墓と塩町式土器、古代には水切り瓦の寺院と各時代において独自の文化の華が大きく開きました。
こうした文化財は私達の祖先の努力のたまものであり、歴史を正しく理解し、文化遺産を保護、受け継ぎ、そして新たな文化の創造を行うことは私たちの使命でもあります。風土記の丘をご覧になる時、そんなことも考えてみてはいかがでしょう。