「明王院五重塔伏鉢(みょうおういん ごじゅうのとう ふくばち)」
「通史展示室」と「草戸千軒展示室」との間に、「草戸千軒への招待」コーナーがあります。
ここに展示してある「明王院五重塔」の「伏鉢」について、解説します。
明王院五重塔と本堂(←部分が伏鉢)。いずれも国宝に指定されています。
伏鉢(複製資料)
伏鉢に刻まれた文字は、次のとおりです。
翻刻文と現代語訳 (PDF)
貞和4年(1348)12月18日付けの明王院五重塔伏鉢銘文などから分かること
- 常福寺(現在の明王院)の五重塔は、貞和(じょうわ)4年(1348)に弥勒菩薩との結縁を望む人々が、わずかばかりの寄付・募金を積み重ねて建築された。
- 五重塔が建てられた14世紀第2四半期は、13世紀中ころから順調に発展してきた「草戸千軒」の町が、飛躍的に活動を活発化させる時期に当たる。
しかし、鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱が続いている時期でもあり、その社会不安・変動の影響を「草戸千軒」の町も受けたと思われる。
実際に、この後約半世紀にわたり、「草戸千軒」の町は一時的に活動を停滞させる。
- そのような不安な状況の中、「草戸千軒」の町の人々をはじめとする地域住民は、弥勒菩薩に救いを求めたのであろう。
- 五重塔の頂部の九輪などの装飾は、鋳物師の沙弥(氏名不詳)の寄附による。
「大工」とは棟梁のこと。「大井」は地名と思われるが、不詳。
- 当時の常福寺の住持(住職)は「頼秀」。彼が、この伏鉢の銘文をしたためた。
なお、彼は、元応3年(1321)に本堂の再建にも尽力していた。
- 字体の異なる「再修」と「覚忍」の4文字は、後から刻まれた。「覚忍」は慶長年間(1596~1615)ころの常福寺の住職。
したがって、慶長年間に「九輪」が修理されたと考えられる。
事実、昭和33~36年度(1958~61)の五重塔解体修理の際に、相輪の一部に修理の痕が確認された。
- 常福寺(現在の明王院)の五重塔は、南北朝期を代表する建造物として「国宝」に指定されている。
本堂も、鎌倉時代末期の元応3年(1321)に建立された「国宝」建造物で、瀬戸内海地域の現存最古の密教本堂の一つである。
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