【サイズ】
本紙 28.5cm×46.0cm,礼紙 28.7cm×46.6cm
【解 説】
戦国大名といえば,命令一つで,家臣を合戦などの危険な任務に動員できるようなイメージがある。
しかし,ここで紹介する書状(手紙)によると,軍事動員は,戦国大名からの一方的な強制ではなかったことがうかがわれる。
この書状は,天正4年(1576)正月に,戦国大名の毛利輝元が天野宮内少輔に宛てたものである。
天野宮内少輔は,志和堀(今の東広島市志和町)を本拠とする安芸国衆の天野元明の弟で,実名を元祐という。
この手紙によると,天野元祐が兄の元明と一緒に松山城(今の岡山県高梁市)に在番することを承諾したので,輝元は,元祐に「古瀬(こせ)」(今の高梁市巨瀬町)の内の百貫文(※)の土地を与えて一層の「馳走」(※)を求めるとともに,在番終了後には別の土地を与えることを約束した。
天野元祐が松山城に程近い「古瀬」を与えられたのは,彼が在番を務めるのに必要な経費等を賄うためである。
注目されるのは,在番を終えると彼は「古瀬」を毛利氏に返すことになるが,松山城の在番という奉公に対する恩賞として別の土地を与えられることが,既に約束されていることである。
毛利氏が家臣を松山城在番などの危険な任務に着ける際には,家臣に対し事前に褒美・恩賞を約束しなければならなかったことがうかがわれるのである。
大名と家臣の間では,軍事命令は,その軍事奉仕(奉公)に見合う褒美(恩賞)の約束との交換と意識されていたのである。
なお,館蔵資料の紹介(8)でも記したように,中世の手紙には,書いた日付を記しても,年までは書かないことが圧倒的に多い。
しかし,関連する内容や人物に関する情報を合わせて考えることによって,手紙が書かれた年代の謎が解けることがある。
この手紙も同様であり,その謎解きは「中世文書を読む(2)」を御覧いただきたい。
※ 百貫文の土地とは…
中世後期の中国地方では,村の規模を「貫(文)」=「石」で表した。
厳密に検地を行って測ったわけではなく,おおまかに「100貫文」=「100石」のように表示した。
1段(約1,000平方メートル)当たり500文(0.5貫文=0.5石=5斗)の年貢を収納したと仮定すると,100貫文÷0.5貫文/段=200段=20町(約20ヘクタール)
これは,マツダスタジアムのグランド18個分に相当する。
※ 「馳走」とは…
元々の意味は,文字どおり,あれこれと走り回って(奔走して)世話をすること。
人をもてなす饗応・接待の用意のために,あれこれと走り回ることから,そのふるまいや饗応・接待のことも意味する。
そこから,饗応・接待のための立派な料理のことも「馳走」というようになった。
【参考文献】
『広島県立歴史博物館 研究紀要』第3号(1997年)