冒頭に展示した「定用水筋細見絵図」には,絵図のあとに続けて桑原家の土功事蹟取調書があり,その中に,緑井村植竹で文化元年(1804)に起きた土砂崩れについての記載が見られる。
この記載は,卯之助の息子である桑原巳之助の勤功を賞するため,巳之助に扶持(褒賞)を与えるよう,用水筋の割庄屋らが沼田郡役所へ出願した文書の中に記されている。
この年,広島では大規模な洪水が発生しており,その際,植竹で「山抜」(土砂崩れ)が発生し,土石流が八木用水を9町(約1km)にわたって埋め尽くしたという。この時巳之助は,災害当日から陣頭指揮をとって用水路の復旧に尽力したと記されている。
八木用水を境に住宅地と農地が明確に分かれていた昭和30年代後半の写真。
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