大正15年(1926)9月11日の広島豪雨災害により,瀬野川支流の畑賀川の堤防が決壊し,山陽本線の畑賀川橋梁と築堤も被害を受けた。
9月23日,東京発下関行きの特別急行第一列車(のちに「富士」と改名)が安芸中野駅を通過した。見回りをしていた消防団員が,築堤が崩れて線路が浮き上がっているのを発見し,踏切番に通報したが間に合わず,11両の客車を牽引した特急列車は脱線・転覆し大破,34名が亡くなった。
この特急列車は,下関駅から関釜連絡線に接続しており,当時日本最高級の国際連絡輸送列車であった。犠牲者の中には,当時の鹿児島市長をはじめとする様々な要人のほか,外国人も2名含まれていた。
二十二日夕刻より二十三日早朝にかけての降雨は又もや凄じい猛威を逞うして
安芸郡の天地を雨に押し包んだ。其中を東京発下関行下り一号列車(一二等特急)
が全速力をかけて二十三日午前三時三十分安芸中野駅を通過し、其儘過般の
大水災に一旦跡方なく流失し其後応急工事を施した畑賀川の鉄橋に
差懸った所、新に築かれた鉄橋築堤は、畑賀川は氾濫する儘に任せ一丁許りの
箇所漸次浸蝕され土質軟弱となり居たる際とて、驀進して来た列車は直に
レールを外れた。雨の為に押流され、飴の如く曲ったレールは南側田圃の中に
めいり込んで南に横倒れに倒れた為め、前結の手荷物車が倒れかゝったのを
除いて、第二輌小荷物車、第三輌の寝台車は一瞬の間に粉砕され、四輌目の
寝台車は前半分を粉砕して後半部は五輌目の客車に乗上げてこれを粉砕し、
茲に四輌の客車は二輌の長さ位に圧縮され、大惨状を呈し、篠衝く降雨と
車輛を洗ふ滔々たる濁水の中に旅客の悲鳴叫喚は此世ながらの修羅の
巷を現出したが、何分にも夜尚暗き為め如何とも為す能はず、無情の
天候の翻弄に委せつゝ未明を待った。
猛然と降り頻る降雨中、突然耳を劈く許りの大音響と共に忽ち修羅の巷を
現出し阿鼻叫喚救ひを求め泣き叫ぶ特急車の大惨事に、さなきだに水害の
大惨事に直面して人心恟々として居った村民にソレこそ山津波の襲来と大狼狽
を極めたが、夫れが列車転覆と知るや夜中に拘らず青年団、消防組、在郷軍人、
村民等急遽現場に駈付け、木葉微塵に粉砕せる客車の下敷となりたる
瀕死の唸きを揚げて居る重軽傷者及死者を掘出し救護に全力を尽したが、
土砂降の降雨の為め救援意の如くならない中を引出した死體及負傷者を
中野村専念寺及二名の村医宅並村長宅に収容したが、何しろ鉄道事故のことゝて
当局の来着を待たねば破壊客車の取外け作業及負傷者の収容も
意に委せず……
※ 記事の文章は原文のままとした。