幕末になると,外圧に対する海岸防御や,浪人の横行などに対する治安維持を目的に,農兵が設置されました。領民の保護は本来武家が担うべき職務でしたが,これを地域の農民に委ねざるを得なくなってきたところに,幕藩体制の危機的な状況をうかがうことができます。
広島藩では,文久3年(1863)に,まず沿海の安芸・佐伯・豊田・御調の4郡で農兵が設置され,さらに翌年には,山間部の領内全般にも設置されていきました。慶応2年(1866)になると,農兵は長州戦争にも駆り出されていきました。
この文書は,世羅郡の代官であった進藤八郎右衛門が農兵設置の趣旨を述べたものです。海岸防御だけでなく,村の治安維持が目的であること,御上の垣になることによって,みずからの格も上昇し,藩主への御目通りも可能になり,祖先に対しても面目をほどこすことになること,農業の合間を見て武芸に心掛け,伍長・組頭・頭取の指揮に従わなければならないと述べています。
なお,このような古文書が極楽寺に残されたのは,当時の住職転誉が世羅郡に設置された農兵の組頭に任じられていたためです。